ファッションについて

まず初めに申し上げたいのが、俺はオシャレに疎いということ。

 

ファッションの流行に関心もなく、好きなブランドや店などは特にない。

 

だがファッションに全くこだわりがないかと言えばそうではない。

 

これが厄介。

 

ユニクロ等を否定する気はない。むしろお世話になる場面も多い。

 

だが「服は全てユニクロでいい」と割り切れるほど大人ではない。

 

ファッションにこれと言って興味がないくせに、服装を一種の自己表現の手段と認識している。

かと言って大金をはたいたり、業界についての知識を得る気はない。

 

故に服選びが大変難しい。

 

こうなってしまった原因はただ一つ、ファッションに対する思い込みが強すぎること。

 

・バスケ経験もないのにジョーダンのスニーカーは履けない、

・185cm90kgの大男でないとアンダーアーマーは着られない、

・サッカーは経験者ではあるが昨今のレトロユニフォームブームに乗っていると思われたくない(サッカーに興味もないであろう奴が古着屋で見つけたであろうベッカムのユニフォームとか着てたらちゃんと殺意湧く)、

・留学経験もないのにUCLAなどキャンパスロゴのトレーナーを着る資格はない、

・詳しくもないアーティストのバンドTシャツを着る資格はない

などなど、枚挙にいとまがない。

 

 

 

よって、着たい服は特にないが、着たくない(着られない)服が多い。

 

誰とも被らず、高すぎず、かつ俺のアイデンティティを反映しながら、少しの遊び心がある服が理想である。(雨ニモマケズみたいになっちゃった)

 

年に二度、今日は服を買いに行くと固く決意して家を出る日がある。

そして8月、その日は訪れた。

 

とはいえ、原宿だのアウトレットだのルミネだのに行く体力はもうない。

 

だから、その日は最寄りの繁華街である吉祥寺を練り歩いていた。

 

だが当然、こんな俺の限定的な需要を満たす服とは出会えず、真夏の吉祥寺散策も2時間を超え体力は限界を迎えようとしていた。

 

そんな俺に一筋の光が差した。

 

カンタベリーである。

CANTERBURY - カンタベリーブランドサイト

 

言わずとしれたラグビーブランド。

 

かつてはボーダー柄のポロシャツ、それも特大サイズのものしか置いていなかったので、俺のような標準体型はお呼びでないと思っていた。

 

懐かしさもあって冷やかし半分で入店したが、かつてのそれとは違う姿だった。

 

奇をてらわず、ラグビー要素を取り入れながらも一軍の普段着として戦える(個人の感想です)アイテムが散見された。

 

即決でTシャツを1枚購入。

 

最高の形で運命の再会を果たし、入店時とは打って変わって軽い足取りで帰路についた。

 

そして気付いた。

 

ずっと羨ましかったのだ。

 

ジョーダンの靴が、アメフトのパーカーが、リバプールのレトロユニフォームが、ニルバーナのTシャツが、ヤンキースの帽子が、コムデギャルソンが、ラコステが、ラルフローレンが、ユニクロが。

 

自分がそれらを着るに値すると思えることが。

 

俺はラグビーをしていたし、カンタベリーをファッションとして取り入れている人間も少ない。故に、俺はこれを着るに値すると久しぶりに自信を持てた。

 

「どうでもいい事いちいち気にしないでカッコいいと思った服を着ればいいじゃん、誰も君のことなんて気にしてないよ。」

 

陽キャラはいつも正論で殴ってくるので嫌いです。

 

誰も気にしていないことなど百も承知。

周りの誰よりも俺が俺のことを見ている。

 

このもう1人の自分とは長い付き合いだ。

一時は消えてもらおうと思ったこともあったが、今では仲良くやっている。

 

自意識過剰な人間にとって、ファッションは自分のキャラクターに合っていないと嘘になる。高いか安いか、良いものか悪いものかだけの話ではないのだ。

 

先述した"着るに値する"とは、自分のキャラクターにマッチしていることを意味する。

 

俺にとって先述したジョーダン達は、サッカーで言えば脳筋センターバックモレリア(ミズノ社の高級スパイク)を履くようなもので、車で言えば初心者マークが必要な期間にジャガーに乗るようなものだ。

 

悲しいことに、俺は服を買ったり着たりするために、逐一言い訳を考えてもう1人の自分に言い聞かせている。

 

ファッションが苦しくなったのはいつからだろうか。

 

中学生〜20歳頃までは、なけなしのお年玉やらバイト代やらを握りしめ、アウトレットやショッピングモールに出かけていたし、服を買うという行為を好意的に捉えていた。

 

理由は様々あるが、"背伸び感"を楽しめなくなったことが一番の要因であるように思う。

 

言葉を換えれば、オシャレをする、ファッションで冒険をするという行為が恥ずかしいものに変わってしまった。

 

それはつまり、自分の身の丈が分かってきたということだと思う。

 

若い頃は、少なからずこうありたい、こう見られたいという視点からも服を選んでいた。

 

だが、いい年をこいてしまったせいで自分の身の丈を理解してしまい、オシャレや冒険、すなわち"背伸び"=嘘という意識が芽生えた。

 

そして嘘を纏ってまで、自分や他人の印象を操作したいという欲求も薄くなった。

 

だからセルフ監査も厳しくなった。

 

ブランディングではなく、自己投影の手段として成立するアイテムのみ、身につけることが許されるようになった。

 

経済的には豊かになったはずなのに、買うことが許される物は減ってしまった。

 

だが悲しむことはない。

 

次に着る服はダサいかもしれない、似合わないかもしれない、逆に、至極凡庸なものかもしれない、それでも、俺が俺に許された本物のお気に入りを胸を張って身に纏うだけだ。

 

 

 

 

 

 

冬のスターたち

今年も一年歳を重ねただけの皆さん、メリークリスマス。

 

今回は、今をときめくスターが同い年や年下だったりすると胸騒ぎするよねっていう話を長ったらしく書きます。

 

 

 

冬が来た。

俺の勘がそう言っている。

テレビでも誰かが言ってた。

 

基本的に冬は嫌いだ。

暑さには強い方だが、冬の寒さにはめっぽう弱い。

日照時間も短いし、風も強い。

夏は全裸でも暑いけど、冬は着込めば耐えられるとか言う奴がいるが、

厚着したらしたで、寒いときは寒いし、洗濯物は増えるし、電車や飲食店内は灼熱だし、安い居酒屋なんかではハンガーもなく上着を置いておく場所がなかったりして面倒くさい。あと冬服高杉晋作

 

冬のいいところと言えば、上着を着るおかげでポケットが増え、財布やケータイを突っ込めるのでカバンを持ち歩かなくていいことくらいだ。

 

いっそ冬眠してしまいたいが、目を閉じて春を待つのはもったいない。

 

日本シリーズJリーグルヴァンカップ有馬記念大学ラグビー選手権、花園、高校サッカー選手権、天皇杯M1グランプリ、etc…

 

晩秋〜冬は、何かの頂点を決めるイベントが目白押しだ。

 

新たなスターが毎年誕生する。

 

その瞬間を目にするために、つらい冬も歯を食いしばって生きている。

 

ナンバーワンを決める戦いは、やはり見応えがある。

しかしその見方も、ここ数年で昔とは随分変わったように思う。

 

 

少し話を逸させてもらおう。

 

ある友人が、「おじさんたちって何であんなに甲子園が好きなんだと思う?」と問うてきた。

 

確かに不思議だ。

勿論、野球や甲子園の面白さに疑問を持つわけではないが、おじさんたちの夏の熱狂ぶりは少し異様にも感じる。

 

友人曰く、大人になると純粋な勝ち負けを決める機会がなくなるから、目の前の勝負に熱くなっている球児たちが眩しく見えるのではないか、とのことだった。

 

確かに一理あるなと思った。

 

 

話を戻そう。

ナンバーワンを決める戦いの見方が変わってきた。

 

昔は、あいつすげーとか、この試合アツいとか、良くも悪くも単純に楽しんでいたし、ナンバーワンになった彼らに憧れを抱いていた。

 

現在も基本的には同様なのだが、テレビの中のスター達とテレビの前の自分を比べて絶望する時間が設けられるようになってしまった。

 

そんな資格がないことは百も承知だ。

 

何も犠牲にできなかった俺が、夢叶えし者と自分を比べるなど、烏滸がましいにも程がある。

 

だが意識は止められない、思っちゃうことは思っちゃう。

 

 

 

ナンバーワンを決めるのは、とても残酷だ。

どれだけ頑張っても負けたら終わりの一発勝負。

 

そりゃ、ゆとり教育だの多様性だの言いたくなるし、No. 1にならなくてもいい元々特別なオンリーワンとかいう曲が流行する訳だ。

そんなこと言ってたら毎年大阪桐蔭青森山田みたいなところが優勝してらぁ。

 

結局人は残酷なものに興奮するようにできてるよね。

 

そんなことはさておき、俺がテレビの前でひとしきり興奮した後絶望しながら思うことはただ一つ。

 

「かっけぇ。」

 

つまらない大人が作った社会のつまらない一員になった今、勝利の喜びや栄光よりも、戦いの中に身を置いていることが羨ましい。

 

大人になってから、悔しくて泣いたり、嬉しくて狂喜乱舞したりという機会はなかなかない。

 

サラリーマンには負けたら終わりみたいなシチュエーションはないし、甲子園とおじさんの話でもそうだが、明確な勝ち負けの線引きがそもそもない。

加えて、そのような世界に長くいるおじさん達は、甲子園球児と自分を比べるような馬鹿な真似はしなくなる。

だから少年の頃と同じ気持ちで楽しめるのだろう。

 

愚かな俺は、年収、地位、家庭、QOLのようなフワッとした物差しでフワッと優劣がつく社会で、本気の出しどころが分からずにいる。

 

単純に、何かを目指してがむしゃらになって、苦しんだ先にある快感を味わいたい。

 

青春コンプレックスか?

 

賢くないくせに中途半端にお勉強ができて、中途半端に要領良く生きてきたから、このまま何も考えずダラダラ中途半端に生きていけばラクなんだろうけど、

 

そうやって、いつしかテレビの前の何者でもない自分に絶望するアンテナさえなくなって、甲子園を無邪気に楽しむおじさんになるのだろうか。

 

 

 

それが悪いことだとは思わない。

 

ただ、冬のスターたちを見て感じる興奮や絶望を、生温い春の風に吹き飛ばされないよう、大事に抱きしめていたいと思う。

 

 

 

27歳。

そろそろ引き返せないところに来ている。

 

モテないけどモテたくない

ご機嫌よう。

人間生活には慣れたかい?

 

 

 

モテたいという動機で行動を起こせる人が羨ましい。

モテたいというのは最も健全な下心だからだ。

 

15歳頃から、モテることへの興味を一切なくしてしまった。

モテる奴に嫉妬もしなくなった。

 

あるいは、嫉妬に苛まれそうになるのを誤魔化していたのかもしれない。

 

あいつはモテたくて高い金払ってオシャレな髪型にしてるから、彼女やセフレの1人くらいいないと可哀想だ。

 

あいつはモテたくて流行りのファッションに身を包んでるから、色んな女とデートに行けて然るべきだ。

 

こいつの話は全然つまらんけど、これくらい当たり障りのない会話が女ウケするんだろうな、まあせいぜい頑張れや。

 

そう言い聞かせて自分のダメな部分と向き合うことから逃げていた部分も大いにあるだろう。

 

ちなみに、顔がいいとかで自動的にモテてる奴には何も思わなくて、フツメンが頑張って雰囲気イケメンな感じになっているモテ方を馬鹿にしていた。

 

実際、彼らがどこまでモテ狙いで、どこまで素だったのか今となっては知る由もないが。

 

少し前までの僕は、モテに繋がる(女ウケ狙ってるっぽい)行動をダサいと思っていた。

 

具体例を挙げると、

出かける度に髪にワックスを塗る

部屋に観葉植物を置く

興味ないくせに世間の流行を把握する

脱毛をする

アクセサリーを身につける

香水をつける

カラオケでbacknumberの曲を歌う

 

 

などなど。

 

上記に該当する人物を見ては、「何キミ、モテたいの?笑」と心の中でニヒルな笑みを浮かべていたものだ。(言うまでもなく、彼らの方が僕よりモテていた)

 

別に、モテたくない訳ではなかった。

ただ、それ以上に、モテに行くのがたまらなく恥ずかしかった。

それ程に自意識過剰だったのか、やはり努力する程モテたいという気持ちが元より強くなかったのか。

 

いつしかモテるというのは大谷翔平と同じようなものになっていた。

 

大谷翔平になりたいかと言われれば、勿論なりたい。

 

じゃあ大谷翔平と同じ努力をしろと言われたら、潔く諦める。

 

労力を割くほどモテに対する情熱はないし、そもそも自意識過剰すぎてスタートラインにさえ立てない。

 

別にそれで良かったし、今更モテ狙い路線に変更するのも面倒だ。

 

だからオナニーライクな生活を送ってきた。

 

行動、言動の判断基準は他人から好かれるかどうかよりも、自分がそれを許容できるかどうかに委ねてきた。

 

こう言うとカッコよく聞こえるが、常人離れした才能や尖った個性もない凡人がそうやって過ごしていたら、ただの自堕落な変態になる。

 

ストイックならばオナニーライフもありだが、所詮凡人では文字通り自分を慰める行為にしか帰結しない。

 

どうせ僕もモテようとしていた彼らも、人間としての中身はスカスカなのだから、ハリボテの清潔感やコミュ力とやらを手に入れて、愛想よく過ごしていた方がはるかに健全だろう。

 

モテたいから、頑張る。

 

その軸で生きてゆけたら、余計な悩みで時間をつかわずに済んだかもしれない、苦しいことから逃げずにいられたかもしれない、もう少し速く長く走れたかもしれない、もう一踏ん張りできたかもしれない。

 

モテたい、即ち、多数に好かれたい。

 

これは、れっきとした下心である。

 

だが、モテるための努力に不健全なものはない。

 

身だしなみを整え、心身を鍛え、教養と経済力を身につけ、万人に優しく愛想よく過ごす。

 

立派な社会人の完成だ。

 

僕のチンケな個性やプライドなど、資本主義社会ではクソの役にも立たない。

 

だからもう、負けを認めるよ。

 

まあ俺みたいな半勃ちオナニー野郎のことなんて誰も気にしちゃいないと思うけど。

 

お前らのファッションも、髪型も、会話も、ノリも、行動も全部キモいと思ってたけど俺が間違ってた。

 

俺の分まで真っ当で幸せな人生送ってくれよな。

 

 

 

 

なんてな。

 

女ウケなんて今も昔もクソ喰らえだタコ。

 

自分の判断軸を他人に委ねるぐらいなら軸なんていらねえよボケナス。

 

女と大人に好かれるやつぁ、どんなに社会的地位とステータスで上にいようが俺がボコボコに叩いてやんよ、覚悟しとけこのダボ!

 

理由?

 

俺がキモいと思ってる奴が社会的強者になるのが怖いからに決まってんだろクラミジア

 

俺は絶対に負けを認めない。

 

カッコつけない、空気読まない、チンコ隠さない。

 

これが俺のプライドだから。

 

月の爆撃機

月の爆撃機

 

ブルーな春

やあ、また会ったね。

 

最近どう?

 

僕の身に起きた変化としては、彼女ができたこと、妹が結婚したことくらいだろうか。

 

だからといって、特に劇的な生活の変化もなく新年度を迎えたし、おそらく幸せで平々凡々な日々を過ごしているのだと思う。

 

これまでの人生を振り返ってみても、それなりに幸せな人生だったと思う。

 

貧しくない家庭に五体満足で生まれ、友人をはじめとする人間関係に恵まれ、生きる上で大きな障害や不安を抱えることなく大人になった。

 

今も不幸ではない。

むしろ、充分幸せなのだろう。

 

だが、胸を張って現状維持を目指せるほど現状に満足しているかと言われれば、答えはノーだ。

 

20代によくある悩みだ。

 

「俺の人生、このままでいいのかな?」ってやつ。

 

この前、久々に会った友人がマリッジブルーに陥っていた。

 

彼もまた、いや、彼こそが「俺の人生、このままでいいのかな?」の渦中にいた。

 

おかげで、今日が楽しければいいと思考停止モードになったいた僕も、少しだけ未来のことを考えられるようになった。

 

彼には

「今ある幸せを噛みしめろ」

「正解を選ぶことはできない、選んだ道を正解にしろ」

など、どこかで聞いたことのあるようなクソの役にも立たないアドバイスをしてしまったわけだが。。。

 

 

最近思うのは、20代後半って、結構オトナなんだなということ。

 

つっても、中身はガキのまんまですよ。

中学生レベルの下ネタが今でも大好き。

 

でも、僕自身も、オトナに近づいてきたなという感覚もある。

 

働いているから、彼女がいるから、同棲しているから、結婚しているから、子どもが産まれたから、、、そんなんじゃあない。

 

オトナになるとは何か。

 

最近思うのは、未来が怖くなること、そして、その怖い未来へ進んで行くことではないかということ。

 

あの頃思い描いていた輝かしい"未来"とはかけ離れた"現在"に絶望し、真っ暗な未来しか見えなくなった。

 

それでも、自分以外に大切なもの、失いたくないもの、守るものができた。

 

それは、家族や恋人かもしれない、誰かの笑顔かもしれない、友人、推しのアイドル、二次元の嫁、趣味、世間体、地位や名声、、、なんでもいい。

 

それらを維持するには、暗くて苦しくて残酷な未来と分かっていながらも前に進まなくてはならない。

 

過去の栄光や失敗を引きずっている暇はない。

 

セピア色の思い出に後ろ髪をひかれながらも、震える脚を引きずって真っ暗な未来に飛び込んで行く中で人はオトナになるのだろう。スーパー自論だが。

 

暗い未来へと逞しく歩み始めた友人が増えてきた。

 

そして僕自身も、一歩踏み出そうとしていることは否定できない。

 

何かきっかけがあったとか、そういう訳ではない。

 

ただ自然と、チン毛が生えたり声が低くなったりするように、オトナに近づいていく時期が来たのだろう。

 

ガキのままでいられるほど特別な何かを持っていなかったとも言えるし、ここで人生を終わらせるほど潔くなれなかったとも言える。

 

18歳までの僕の声が聞こえてくる。

 

「つべこべ回りくどいんだよ、結局お前は平凡な人生でもいいって言い聞かせてるんだろ?」

 

「並外れた努力もリスク冒すこともしないで夢破れたみてえなツラしてんじゃねえよ」

 

「真っ暗な未来に進むとして、お前そのままで戦えるの?」

 

「今の仕事に胸張れる?」

 

「その収入でてめえ以外の何かを守れると思ってんの?てか貯金とかある?」

 

「結婚とか考えちゃってる?子供とか作るなら若いうちの方が良くない?」

 

「今は一人でも楽しいけど、それ40になっても同じこと言える?」

 

「一生東京に住める?親の介護とか結構大変らしいよ」

 

「結局何が楽しくて生きてるの?」

 

うるせぇ。

こっから気合いで面白い人生にしてやるから指咥えて見てろタコ。

 

 

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人付き合いについて

今年まだ一度もSEXをしていない皆さん、お久しぶりです。僕もです。

 

早すぎる季節の流れに今年も置き去りにされたマッチョウィンプスです。

 

みんなが元気なことを祈ります。

 

僕は8月にコロナに感染して増やした体重がリセットされたり、9月には原因不明のメンタルブレイクをしたり、そして友人知人が結婚だ転職だ引っ越しだと人生の次のステージへ進む様子を指を咥えて見ていたら11月になっていたり、刺激に欠けるが平和に過ごせている。

 

平和の代償として思考停止人間になった。

それ故このブログに書くようなこともなかった。

19〜23歳頃の僕だったら腹が立って仕方のないこともたくさん起きたはずだが、今の僕にそのアンテナはない。

 

そして嫌いな人がいなくなってきたのだ。

 

過去に書いた記事を読み返してみると、確かにあの頃は世の中のほとんどが敵に見えていたなとしみじみ感じる。

 

これが恐れていた「丸くなる」ってやつ?

 

だとしても抗うことはできない。

尖ろうと思って尖るのは14歳で引退したから。

 

人を嫌わなくなるとはどういうことか、おそらくは他人への関心が薄れているのだと思う。

 

相手のことを深く知らないから、当然好きにも嫌いにもならない。

 

では何故他人への関心が希薄になるのか。

原因はいくつかある。

 

まずは、新たに仲良くなれる人を必要としていないこと。

 

何かとイラついていた19〜23歳頃(以下、不本意ながら青年期と呼ぼう)と現在の違いとして、まずこれが考えられる。

 

青年期は他人と仲良くなれる可能性を相手にも自分にも見出そうとしていたように思う。

 

だから相手の嫌な部分が見えるとハズレくじを引いたような気分でムカつくし、反対に自分のが相手に受け入れられなかったら落ち込む。

 

めっちゃ自己中だな。

 

弁解させてもらうと、大学特有の「よっ友」という文化が大嫌いで、人間関係の構築において仲良く過ごすか他人として過ごすかの2パターンしか手法がなかったので、少々極端な人付き合いをしてしまったかもしれない。

 

このような青年期を経て、現在の僕は他人に対して仲良くなれるかもという期待をしなくなった。

 

青年期のように期待をしていたら疲れるというのもあるが、もう満たされていると言うのが本音に近い。

 

つまり、青年期までに出会えた友人が生きていて時々会えたら僕は充分幸せで、今のところ特にご新規は募集していないという状態。

 

歓迎も拒絶もしないというスタンスだから、自ずと他人への関心が薄れる。

 

 

次に、他人の力を必要としていないこと。

 

昔から、人に頼み事をするのが何故か苦手だった。

 

何かができないと思われるのが恥ずかしいからとか、人に迷惑をかけるのが申し訳ないとか、そんな陳腐な理由ではない。

謎なのだ。

 

だから、自力ではどうにもできないことは諦めて生きてきた。

 

おかげで何かと自己完結させてみようという姿勢が身に付いたので、"面倒なことを自分でやる"という能力は高くなったかもしれない。

 

いい奴キャンペーンをやっているのではない。

 

自己完結の根底にあるのは怠惰と妥協のみだ。

 

人を頼るという苦手な行為によるストレスを受けるくらいなら、潔く諦めた方が気が楽だというだけ。

 

そんな訳で、生活(=サバイブ)においては他人の力を必要としていないのが現状だ。

 

だから積極的に交友関係を広げようとか、誰かと頼み事をしあえる関係になろうという動きをしない。

 

結果、新しく出会う他人への興味が希薄になってしまう。

 

こう言うと僕が人間関係にドライな奴だと思われるかもしれないが、そうではない。(と思う)

 

生きていく上では一人で構わないからこそ、僕は人付き合いにおいてメリットを相手に求めずにいられる。

 

この人と仲良くしていれば面倒なことをやってくれる、集団の中で一軍になれる、ワガママを許してくれる、飯を奢ってくれる、セックスをさせてくれる、お小遣いをくれる。

 

こういう小賢しい損得勘定が上手ければ、僕の人生は大きく違っただろう。

 

大学では男女混合のインカレサークルに所属し、飲み会で薄ら笑いを浮かべながらバカな女が喜びそうなつまらん冗談を言って人気者になり、性体験を武勇伝と勘違いして自慢げに仲間に語り、働き始めて自分を持ち上げてくれていた仲間が減っていくことに怯え、過去の栄光とちんけなプライドを守るためテキトーな女に中出しを決めてデキ婚し、愛を見つけたとか、もう落ち着く歳だとか抜かしながら幸せな家庭を演じていたに違いない。

 

おっと、いつもの癖でヤリチンの人生をバッドエンドにしてしまった。

 

単に自分がモテないのを棚に上げて誰かをこき下ろすのは僕の良くない癖です。ごめんね。

 

話を戻そう。

 

僕は付き合う相手にメリットを求めない。(だからってデメリットをいつまでも許容できるほど器が大きい訳ではないが。)

 

故に人間関係の構築においては楽しいか楽しくないかの感情論100%で取捨選択を行う。

 

利害の上に成り立つ依存関係よりも、「理由は分からんけど俺が好きだと思ったから好き」という感情論の上に成り立つ関係の方が愛が深いし、相手が自分のことをどう思っているかなんて無駄なことも考えずに済む。

 

だから、社交的で人気者で要領のいい世渡り上手で、その実、一人では何もできなくて他人の力で自分が気持ちよくなることしか考えていないヤリマンメンタルのふにゃチン野郎共より、悶々として眠れぬ夜も布団を噛んで自慰に励んできた僕の方が情に厚い男に決まっているのだ。(ここまでオタク特有の早口。普段吃るくせにここでは一度も噛まず。息継ぎなし。)

 

 

そして最後、結局自分と向き合うのに精一杯だということ。

 

社会復帰したので青年期よりも時間的余裕がない。

 

その上、自己分析(笑)がまだ終わっていないのだ。

 

先述したように確かに思考停止人間にはなった。

 

自己分析というのは突き詰めていけば自己否定な訳で、精神的にかなりしんどい作業になるから最近は中断していた。

 

筋トレが新たな趣味に加わったおかげで、自分を見つめることから逃げられるようになった訳だが、結局筋トレも自分との戦いだ。

 

次回はこの重さで何回できるようにしようとか、これを食べたら調子が良いとか、どこの筋肉が弱点だとか、結局フィジカル面で自分を見つめることになる。(所詮は趣味レベルの話だが。)

 

そしてそれを楽しんでいる自分。

 

つまるところ、ベクトルを自分にしか向けられない男なのだ。

 

自分の殻に閉じこもったまま、自己完結できる娯楽でああでもないこうでもないと自分で盛り上がって満足しちゃってる訳だし、それを邪魔されるのも嫌だし、そんな訳で初対面の人間に関心を抱いている余裕なんてないんすわ。

 

ベクトルを自分の外に向けられないから恋愛感情ともご無沙汰なんだろうな。

 

ちなみに僕は7年程恋をしていない。

 

自分を守るために、自分がどんな奴なのか、どこが世間とズレているのか、自分が悪いのか世間がおかしいのか、、、みたいなことばかり考えているような次元の低い奴に、誰かを好きになるなんて高尚な真似はまだ無理だ。(黙っててもモテる武器があるなら話は別だが。)

 

人のためにできることはあっても、人のために生きることはまだできないね。

 

 

 

 

 

心のコンドーム、まだ外れてないなあ。

 

 

では、またいつか。

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愛を探しにゆこう

BTSのメンバーの名前を一人も把握していない皆さん、こんばんは。


久しぶりになっちゃった。

別に忙しいとか彼女できたとかではない。
強いて言えば、考えること、自分と向き合うことから逃げていた。
だってしんどいもん。
ネガティブなマインドで会社員ごっこなんかできるかよ。

という訳で、最近は時間があれば筋トレをするか友人に会うか寝ているか、というのが僕の日常だ。

筋トレ、まだ続いているんです。
一昔前の僕を知っている人であれば、あの怠惰なお前が?と不思議に思うことでしょう。



以前のブログでは、何もないところからの成長がやる気となったみたいな事を書いたと思うけど、流石に驚くほどの成長はもう無いし、トレーニングをしている自分に酔うという感覚もなくなってきた。

じゃあ何故続けるのか。

筋トレがオナニーからリストカットに変わったからだ。

詳しく述べよう。

少し前までは、自己満足(筋トレしてる俺カッケー的なあれ)、そして自分に課した課題を自分で乗り越え自分で自分を褒めるという自慰のために筋トレを行なっていた。
これがオナニー的筋トレ。

最近は体に痛みや苦しみを与えることで、資本主義の中で発生する小さな悩みや不安を忘れることと、「生」を実感することが目的になっている。その副産物として体がデカくなればいいなといった感じ。
だからこれは自慰行為というよりは自傷行為であり、リストカット的筋トレと定義する。

ストレスの対処法として筋トレをしていると言えば聞こえはいいが、その実自傷行為なのでは健全とは言えないかもしれない。

仕事なんていつでもやめてやるぜという腹づもりでいるし、大した仕事をしている訳ではない。
けれどもプレッシャーや漠然とした不安をどこかに抱えていて、それを忘れ去るおめでたさをまだ獲得できていないから体を痛めつけて誤魔化している。

ヤワなハートが痺れ〜る〜〜心地よい筋肉の痛み〜♪
愛のしるし/PUFFY より改編して引用)

こんなことでは体が(ないしは心が)長くはもたない。
まあその時はその時と割り切ってもいいけど、今世の中を捨てるのは少し名残惜しい。

何故なら、まだ愛を知らないから。

最近、自分の周りで同棲や結婚が流行っているので、人を愛するとはどのようなものか知りたくなった。
愛によって、人は強くなったり弱くなったりするらしい。JPOPの名曲たちによると。

何人かの話を聞いて思うのは、愛には三種類あるということ。

愛したい>愛されたい型、愛したい<愛されたい型、愛したい=愛されたい型。

ちなみに僕は、愛したい>愛されたい型、通称KinKi Kidsタイプ。
愛したい<愛されたい型には、自分に自信のない女の子、ヤリマン、ナルシスト系ヤリチン、が多いイメージ。

そんなことはどうでも良くて、とにかく僕は誰かと愛し合ってみたいのだ。

ナルシズムを極めることはできなかったし、自傷行為を続けて生き延びることはできても幸福に近づいているとは思えないから。
まあ、愛し合うことが幸せなんて保証はどこにもないんすけどね。(負け組独身男性特有の斜に構えた小言風の妬み)

一人暮らしも8年目になると、誰かと共同生活をするビジョンが浮かばないし、自分の自由な時間を奪われたくないという気持ちもある。
ただニートの時感じたのは、自由すぎてもそれを扱える器量と気力がなければつまらないということ。(100億円でも持ってりゃ話は別だが)

であれば、多くの人は無意識に縛りプレイの生活を欲するようにできていて、愛する人のためという縛りが加われば余計なことを考えずに頑張れたりしちゃうのかな、マズローの五段階欲求とかそういうやつ?
詳しく知らんけど。

話がややこしくなるのでこの辺のことは次回以降書きます。


今回僕が言いたかったのは、最近は筋トレが自傷行為となっていること、それが行き過ぎないようにするための特効薬として愛を実感してみたいということです。

もっと簡単に言うと合コンとか女友達の紹介とか風俗のお誘いとか大歓迎だよ!ってことです。

ではまた。

ネイルしてる女の気持ちが分かってきた

初詣に行って新年の目標を立てることで満足してしまう皆さん、あけましておめでとうございます。
今年は形になるといいですね。


最近、肉体改造に取り組んでいる。
というのも、ニート後半、金が底をついて実家に不法滞在していたのでやることがなく、万策尽きてニー友(ニート友達)の遅漏君と体を動かし始めたのがきっかけだ。
(二人とも実家のマンションにはオートロックがあるため、自宅警備の業務は忙しくなかった)


遅漏君とは中学時代からの付き合いであり、つまりお互いの実家が近い。


最初は近くの海沿いを散歩しながら
「いいとこ住んでるよなー俺たち」
と言って胸を痛めたり、
ジョギング中に下校中の小学生とすれ違って胸を痛めたりしていた。
プールに行って小学生に飛び込みのやり方を教わったりもした。

そんなこんなで、住所以外全て不定の二人はいつしか筋トレをするようになった。
とは言えジムに行くようなお金はなかったので、夜な夜な公園や駐車場に繰り出しては腕立て伏せやスクワット、その他にも公園の遊具を使って無課金で出来るトレーニングを行い、親のおつかいでくすねたお釣りでコンビニのプロテインドリンクを買って飲んでいた。
ごめんなさい。


せっかく筋トレをするならもっと飯を食おうと思い、ある日から夕飯は米を2合食べることにした。
つまり、穀潰しに拍車をかけた。
ごめんなさい、そしてありがとう。


筋トレとインターネット巡回の合間に職探しをする生活が1ヶ月続いた頃、ガリガリにやつれていた僕の体は8キロの増量に成功し、心なしか筋力も向上していた。

ニートにとってこの『成長』は偉大な起爆剤となった。




筋トレを開始してから約5ヶ月が経った。
食事量は更に増え、プロテインも粉末状の物を購入して毎日3杯ほど飲むようになった。
僕は寒いと家から出られないのでジムにはまだ通っていないが、ダンベルを購入し、家でのトレーニングをシコシコ続けている。
体重も順調に増えており、久しぶりに会った友人には「なんかお前ゴツくね?」と言われることも多くなった。





ここで!!いきなりですが!!!



筋トレして体に変化が表れ始めた頃の周りの反応第一位を発表します!!






「何目指してんの?」





いや〜、あるあるですね〜。
マッチョたちから共感の嵐が吹き止みません!


確かに、スポーツをする訳でもなく、誰に見せるでもない肉体を鍛えて何になると言うのだろうか。
それも、食費をかけ、空腹でもないのに無理矢理飯を腹に押し込み、使い道のない筋肉を嗚咽を漏らしながら鍛える。
全く合理的ではない。
では一体何のためにそんなことをしているのだろうか。

実を言うと、僕自身、この問いに対するはっきりとした答えはない。
何も目指していないし、マッチョになった程度でモテるような人間でもないことは理解している。

でも、それこそが、三日坊主、いや、三分坊主な僕がここまで継続できている秘訣だと最近気づいた。

目標や理想を掲げ、それに向かって努力するのは確かにカッコイイ。
だが僕のような意識低い系ネガティブ凡人は、理想と現状のギャップやそこに到達するまでの道のりの長さに絶望してしまう。
そしてすぐに挫折する。

だから、ただやってみる。
他人とも、理想の自分とも、何も比較せずにやる。
やった自分を褒めることで達成感を演出する。(これめっちゃ大事)
自分の成長を敏感に察知して喜ぶ。

こうして、良い循環が生まれる。

自分に苦しみを与えて、自分でそれを乗り越え、そんな自分を自分で褒める。

そう、これこそが究極の自慰行為だ。

多くの人は馬鹿馬鹿しいと思うだろう。
で、結局そんなことして何になるのだと。


どうも、資本主義と酒に飲まれて大切なものを見失っている奴が多いらしい。
メリットがなければ、他者から評価を得られなければ、他者より優れていなければ、その物事には価値がないと勘違いしてはいないだろうか。
快感は、苦しみの先にあるということを忘れてはいないだろうか。


ピカピカの泥団子を作っていた少年少女の頃を思い出してほしい。
あれほどまでに、自己満足な苦しみと快感があっただろうか。
メリットなど勿論なく、翌日にはただの砂になる。
それでも、手や服を汚しながら、足を痺れさせながら納得のいく泥団子を完成させた時には、達成感や充実感があったはずだ。


筋トレは、それを思い出させてくれた。

人生は、部活でも、受験でも、会社でもない。
だから、何も目指さなくていい。そして自分を測る物差しは自分で持っておいた方がいい。

まあつまり何が言いたいかと言うと、

人生=自己満足
自己満足=泥団子
女のネイル=自己満足

の式が成り立つので、

女のネイル=泥団子

は真である。
Q.E.D.




本当に言いたかったことは、


「筋トレ仲間募集してま〜す!」





またね。

SEVEN DAYS WAR

SEVEN DAYS WAR