映画を「観る」「見る」 どちらが正しい?

Good morning, and in case I don't see ya, good afternoon, good evening, and good night!
マッチョウィンプスです。


今日は梅雨らしくない天気だ。よって、家に引き籠もっている。
ずっとだらだらしていても気が滅入るので、映画を観た。
トゥルーマンショー」という映画だ。
有名な作品なので観たことのある人も多いだろう。

トゥルーマン・ショー - 作品 - Yahoo!映画

メンドクサイので感想などは書かない。


唐突だが、オイラは映画に関する教養がない。
いや、厳密には全くない訳ではないが、一般的な教養レベルにはとても達していないだろう。
まず、ジブリの映画をほとんど観たことがない。
学校の平和教育で観せられた「火垂るの墓」と、八幡山のインディアンに半強制的に観せられた「魔女の宅急便」以外は一つも観たことがない。
ハウルも、トトロも、ラピュタも観たことがない。
親がジブリ作品を嫌っているらしく、そのおかげで幼少期にそれらを観る機会がなかったのだ。
そして今更それらを観ようという気にもなれない。

そもそも、オイラには同じ作品を何度も観るという行為が理解できない。
よっぽど好きな作品や、自分にとってのバイブルとなっているような作品なら分からんこともない(オイラも、定期的に観る作品が3つある。)が、ジブリが万人にとってのそれに値するとは思えない。観たことないけど。
何故あんなに頻繁に再放送される作品を、毎回楽しみに出来る人間が多いのか不思議でならなかった。
魔女宅(ニワカが略すな)を観て思ったのは、ジブリ好きの人たちは「男はつらいよ」みたいなドラマが好きなんではなかろうかという事。
お決まりのパターンみたいなのがあって、展開もオチも大体分かってるけど、それを観てほっとするような気持ちを抱いているのではないだろうか。
つまり、伏線だの考察だの小難しいことは置いといて、社会の荒波に揉まれて荒んだ心をジブリで癒しましょうぜって感じなのかなと。
それならジブリ好きの方々の気持ちも分かる。
オイラも家で笑点とか犬の動画とか観てるとほっとするもんね。
ジブリトークについていけないのは残念だが、ジブリ狂ってロリコンで正義感強い奴が多そうだからこれからもジブリは観なくていいや。


問題はジブリではない。
オイラはジブリ以外にも、誰もが観たことがあるという前提が成立してしまっている映画の多くを観たことがない。
タイタニックバックトゥーザフューチャー、ET、スターウォーズフォレストガンプ、シャイニング、ホームアローンターミネーターマトリックスジュラシックパーク、スタンドバイミー........etc
例を挙げればキリが無い。
ハリーポッターシリーズはいくつか観たが全くハマらなかった。
ショーシャンクの空に」も18歳の時に初めて観たが、評判が良すぎてハードルが上がりすぎていたのか全然感動できなかった。
あまりこういう事を書くと、感性が大衆とズレていることに快感を覚えるマイノリティーオナニーだと思われるのでこの辺でやめておこう。
まあ何が言いたいかと言うと、




「オススメの映画教えてください」
メジャー、ニッチ、邦画、洋画、ジャンル、濡れ場の有無は問いません。

レンタルビデオ屋も無いゴミタウンに住んでいるので、適当にビデオ屋で探すってのが出来ないわけよ。
サブスクって観るものが決まってないとあんまり便利じゃないし。


ちなみにオイラのオススメは、上に定期的に観ると書いた3つで、「ファイトクラブ」、「パッチギ!」、「クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国」というラインナップ。
まあ全部人から教えてもらったんだけどね。



それじゃ、またいつか。



凡人のすゝめ

どうも、僕です。
恥ずかしながら、入社した会社がいわゆるブラック企業の条件をかなり満たしているが、お陰で転職だったり、やりたい事だったりと意識他界系の思考を手に入れることができた。
ウジウジ後悔するのが僕のお家芸でもあるのだが、今回ばかりは切り替えが早かった。
理由は分からない。
ウジウジしている時間が一番無駄だと、驕り、腐りきった大学生活で体が覚えたのだろうか。まさかね。
しかし、いくら考えても、自分の好きな事、得意な事は何で、こういう生き方がしたくて、だから人生の目標はこうで、そのためにこんな仕事をしたいなんて事は思いつかない。
のらりくらりとその場しのぎで生きてきた僕に、そんな崇高なビジョンなど見えようはずがない。
休日だって、何かしたいという気持ちはあるが、何をしようか思いつかずダラダラ過ごすことが大半だ。
どこまでも受け身で、与えられたことをこなすだけのロボット人間だったと思い知らされる。
いや、それを分かっていたから僕の足はイオンモールへと向かい、何も考えずTOEIC〇〇単語集みたいな物を買った。
DMM英会話なる物も始めた。
何故今更英語なのかは自分でも分からない。
とにかく現状を変えたいという思いが、僕をイオンモールの小洒落たTSUTAYAにパジャマのまま向かわせたのかもしれない。

こんな恥ずかしいことをブログに書こうと思ったのは、自分が「自分の努力を実況中継していなと踏ん張れない人間」であることを認めたからだ。
つまり僕は弱くて甘い人間である。
他人の目がないと自分に鞭打つことが出来ない。
イチロー本田圭佑みたいに、努力を努力と思わないような人間にはまだなれない。
今なら、受験や就活といった人生のイベントで、サムイ精神論を唱えていた者や他人に努力を見せびらかしていた者の気持ちが何となく分かる。
そうやって自分を戒めていたんだね、そして自分以外の誰かに肯定されたかったんだよな、自分の行動を。
馬鹿にして、否定して、足を引っ張ってごめん、僕もそっち側の人間でした。認めたくなかったけど。



これを読んだ誰かが、僕のことを馬鹿にしたり、激励したりしてくれることを少しだけ期待して書きました。
これを誰かに見せることで、僕が自分への甘さをいくらか無くすと期待して書きました。
前述の通り、そうでないと僕は頑張れないので。
現にもう英語飽きてきてるし。

それでは、おやすみなさい。

みんなちがって、みんないい。

みんなちがって、みんないい。

さよならだけどさよならじゃない

ついに東京を離れる。

未だに実感は湧かない。

けれど引越しを終え、退居のため空っぽの家に帰ったとき少し泣いた。

東京にいる友人にはまた会えるだろうし、住んでいた街を訪れることも出来るけど、俺が創り上げたあの六畳の空間は二度と戻って来ない。

それが切なかった。

わざわざ死ぬまで銀行の奴隷になってでもマイホームを買う馬鹿の気持ちが分かった。

 

しかし、思ったよりあっさりみんなとお別れしたな。

卒業式が中止になったりして、大袈裟なお別れの儀式が無かったからなのか。(無論、卒業式に出たところで友人はとっくに卒業しているから孤独になるのだが)

別に戦争に行く訳でも異国に行く訳でもないので本当にいつでも会える。

連絡先を知っているし、飛行機に乗れば一瞬で会いに行ける距離なんだからそんなに悲しむ事ないじゃないか。

 

と思っている。

でもこれが楽観的な考えだということもどこかで理解している。

みんな忙しくて、いつの間にか社会のどこかに丸め込まれちゃうんだよな〜。

頻繁には会えなくても、忘れられないくらいには会っていたいなぁ…。

まあ、今のところ本当にいつでも会える気でいるのでお別れって感じはしないね。

 

そして、俺が離れることを寂しがってくれる人がいたことが嬉しかった。

大学に入学した頃は何だか邪魔者扱いされているような気がしたし、彼女を寝取られたときは俺は東京では幸せになれないなどと思ったけど、自分の存在を肯定してくれる人と出会えたことを心の底から嬉しく思う。

ま、東京育ちの女とは1人も仲良くないけどね。

Pellicule

Pellicule

  • 不可思議/wonderboy
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥255

ら・ら・ら

ら・ら・ら

 

 

自己狭間の戦い

俺は今、羽田空港国際線ターミナルにいる。

国際線と言っても目的地は福岡、つまり実家だ。

4月から住む家を決めるため、ついでに向こうにいる友人に会うために実家に帰省(寄生)するのだ。

なぜ俺が国際線ターミナルにいるのかと言うと、金をケチって早朝の便を予約したからだ。

始発電車に乗っても自宅からではフライトに間に合わないので、そして何より飛行機に乗り遅れたトラウマがあるため、空港で前泊することを決断した。

国内線ターミナルは夜を明かすには少々過酷な環境であるため、国際線ターミナルでの耐久レースに挑んだのだった。

カレーを胃に入れ、空港の綺麗なトイレで同じくカレーのような物質をぶちまけ、暇つぶしのお供にと持って来た読みかけの小説もあっという間に読み終わってしまい、もちろん旅行客や今話題のウイルスが飛び交う国際線で寝られるはずもなく、早くも万策尽きて携帯の画面にポチポチと文章を入力している次第である。

 

仕方ない、読書感想文的な事でも書くか。

 

何を隠そう、いや、恥ずかしながら、俺はさっき、生まれて初めて小説を読んで一筋の涙を零したのだ。

 

舞台 (講談社文庫)

舞台 (講談社文庫)

 

恋愛、戦争、病気、青春。お涙頂戴四天王のどれにも属さない作品だ。

いや、もしかしたら全てに当てはまるのかも。

俺は、自分自身に対して、演技をしている。自分を欺く者に、本当の姿などない。そのことだって、分かっていたはずだった。でも、やはり苦しいのは、そんな自分を、どうしようもなく嫌だと思うからだ。俺は一生、この苦しみと付き合わなければいけない。自分を欺き、演じて、そのことに嫌悪し、だが決してやめられない。俺はそうやって、一生、苦しんでゆくのだ。

きっとこのブログに辿り着かなかった健全な人たちは、この小説を読んだところで共感も感情移入もしないだろう。

 

センスがあると言われたくて - マッチョ日記

この小説には、俺の人生のテーマとも言える「生きづらさからの解脱」のヒントになるような事が何度も記されていた。

まあ気になったら読んでみてね。

 

さて、これを読んでいるあなたは「もう1人の自分」に悩まされたことはないだろうか?

言い方を変えれば、「自分を監視する自分」に。

例えば、街で犬を見かけて可愛いと思う自分がいる。

対して、犬好きである事があざとく感じて、それを悟られまいと素っ気なく振る舞う自分がいる。

さらに、自分の気持ちに正直に振る舞えない自分に腹が立つ自分。

これで良かったんだと囁く自分。

無限ループ。地獄。

自分の中に"もう1人の自分"が現れたのはいつからだろう。

俺が初めてそれをはっきり認識したのは、中学1年生の初夏、運動会の時だった。

運動会終了後、涙を流す上級生やクラスメイトを見たとき、少し羨ましいと思った。

もう1人の俺は、「うわぁ、サムい」と思った。

このとき、もう1人の俺が勝利し、俺は彼の指示通りに振る舞った。

クラスメイトが仲間と敵の2つに分類された瞬間だった。

それから俺は、もう1人の俺を衆議院議員に任命し基本的には彼の意見を採用してきた。

ある時母親が、「あんたこのままじゃ私のような捻くれ者になるよ」と言ってきた。

母親の言葉が気持ち悪くて恥ずかしくていたたまれなくなったのを覚えている。

自分で自分を捻くれていると言う時点で大して捻くれちゃいないじゃないかと思った。

こんなダサい人間にはなるまいと決意した。

母親は俺を、俺は母親を絶対に理解できないという事を、そのとき初めて理解した。

その気持ちは今でも続いていて、母親に感謝こそしているが、どこかで母親が自分の母親であることに疑問と嫌気を持っている。

とにかく、俺はこのとき、誰よりも捻くれていたいと思った。

同時に、絶対に自分が捻くれていようとしている所を他人に悟られまいと決意した。

そして勿論、そんな自分を誰よりもダサいと思った。

もう1人の自分が現れなければ、勉強やスポーツや恋愛はきっともっと上手くいっただろう。

だが彼を消さなかったのは、捻くれている自分が好きだし、彼のおかげで出来た大切な友人が何人もいるし、何より彼の存在が俺の中で大きくなりすぎたからだろう。

大学では必死に友達を作ろうとする周囲の人間がイタく思えて周りに馴染めず、学校もサボり、彼女を寝取られ、部活やサークルと言った鬱憤を発散する場所もなく、もう1人の自分に甘えてきた。

その度にそんな自分を恥じて呪った。

結局就活中ももう1人の自分を消せず、今度はもう1人の自分のせいで人生が滅茶苦茶になるような気がした。

だから俺はもう1人の自分を殺そうと頑張った。

ゴルフをしたり、蛍光色のスニーカーを買ってみたり、オナ禁してみたり、麻雀を覚えようとしてみたり、限界までサウナに入ったり。。。

どれも満足のいく結果に結びつかなかった。

やはり、キムタク(気難しいオタク)の俺には恥ずかしさ、つまり、もう1人の自分からの目が付き纏う。

そして、それに負けてしまう自分をまたしても呪った。

おそらく、何かに打ち込むことや何かを好きになることは、自己肯定や心の平穏には繋がらない。

俺は死ぬまで素直になれず、老害と揶揄され死んでいくのだと思った。

だが、この小説は、もう1人の自分と共同体になることや、素直になれない事を肯定してくれたような気がした。

そもそも、素直とか正直とかありのままとかって存在しないんだわ。

人は社会の中で常に何らかの役割を演じてる訳で、自己ってのも他人との関わりの中で形成されるものだから。

多分俺の感じてた生きづらさは、「俺はこういう人間だ」というものに拘りすぎていた事から生じたものだと今は思う。

 

これから俺の性格や思想が大きく変わることはないだろう。

そしてもう1人の自分とも死ぬまで付き合うつもりでいる。

これからは、そんな自分を許してあげたいと思う。

 

たりないふたり

たりないふたり

 

 

オナニー禁止条例

どうも、あけおめコトヨロ。

 

1週間オナ禁チャレンジ5日目に突入した。

1週間の禁欲でテストステロン値が最大になるらしいのでやってみることにした。

先週は5日目に魔がさしてしまったので今日は鬼門である。

4日目から早朝勃起がいつもより力強い。

そして精神的にポジティブになった気がする。

エネルギッシュと言うか、ギルガメッシュと言うか、言動がはきはきして気怠い感じが減少する。

オナ禁をしようと決意したのはこれが初めてなので、チャレンジに成功するたびに自信が身に付いていくのかもしれない。

5日目にシコってしまった時の快感と罪悪感は凄まじいものだった。

ジェンガを丁寧に積み上げてあと少しで完成というところで蹴っ飛ばす感じ。勿論賢者タイムも激しい。

 

積み上げた物ぶっ壊して身に付けた物取っ払って止めどないセイシで渇いた脳を潤せ〜♪

って感じ。

 

あーシコりてえー。

いや、5日目を迎えた今シコりたいからパコりたいへ気持ちがシフトしている。

これは大きな発見。

思えば惰性的オナニーが俺の大学生活失敗の一因だったのかもしれない。

今や射精によって現在の精神状態が維持出来なくなることが怖い。

 

体外的要因で自分に自信を付けることは不可能だと判断したので、俺は自ら課したオナ禁条例を守ることで自信へと繋げていきたい。

 

SEXを最初に思いついた人間と、オナニーを最初に思いついた人間はどっちが天才なんでしょうね。

オナニーか。1人で考えついた訳だから。

いや、みんなで考えて思いついたかもしれん。

SEXを応用してオナニーが生まれたのか、オナニーを応用してSEXが生まれたのか。

ニワトリ卵ですよこれは。

 

恐らく思考力は落ちてるな。

どん兵衛食って働きます。

明日30日でテスト終わるのでオファーお待ちしてます。

STILL LOVE HER (失われた風景)

STILL LOVE HER (失われた風景)

 

 

 

 

 

支離滅裂

ラグビーW杯が始まる2日前、すなわち大学生活最後の夏休みが終わる2日前、長引きすぎた就職活動がようやく終わった。

そして僕は西日本では桜が咲く頃に東京を離れ、地元福岡県の隣、佐賀県鳥栖市に拠点を移すことになった。

散々余裕ぶっこいておいてこのザマである。

まあ人生の本番はここからだし、働いてみないと分からない事がたくさんあるので、今はひとまず就職先が見つかって良かったと言い聞かせ安心している。

最終面接で内定を言い渡され、そのまま社員との飲み会に呼ばれ、断れるはずもなく居酒屋で愛想笑いを浮かべ続けた。

いかにも田舎の会社って感じだな〜、九州のおっさんって感じだな〜などと心の中の自分と対話しながらマズイ酒を体に流し込んだ。

睡眠不足だったのと久々の飲酒だったのとで随分と酔っ払ってしまったので、最寄り駅の2つ手前の駅で降りて酔い覚ましがてらに歩いて帰った。

道中、「この街ともあと半年でオサラバか〜」などとクサイことを考えていた。

イヤホンからMOROHAの曲が流れて来た。

「人生は旅だ。そんなのはウソだ。俺はどこにも行けないじゃないか。」

「誰かを見下したくてしょうがない。心の中にある寂しさ。他人の弱さ言い当てたことを強さと勘違い俺はバカだ。」

人目もはばからず嗚咽を漏らして号泣していた。

何を持って涙が流れたのか今の自分には分からない。

安堵感、疲労感、虚無感、劣等感。そこに肝臓が処理しきれない量のアルコール。

臨死体験だった。

次の日から僕は吉良吉影のような男になった。(吉良吉影が分からない人はジョジョ読んでね)

朝7時に起床。

朝食にホットサンドとアイスコーヒー。

学校、アルバイトを経て夕食は焼うどん。

洗濯物がたまっていれば起床時間に洗濯が終わるようにセットし、プロ野球ラグビーW杯の結果をチェックするついでに息子をシゴいてラジオでも流しながら就寝。

 

「心の中にある寂しさ」

結局「普通」というやつを本能的に行っている。

やっぱり僕は凡人だ。

 

就職活動では自己分析とやらが求められる。

賢者タイムに行っている人生反省会がそれであるならばそんな物必要ないと思い、特に重要視しなかった。

クサイことを言おう。

自己分析(笑)で分かったことは、自分にとって友人の存在が一番大切だと言うことだ。

東京、大学で味わった人間関係の希薄さが僕をそのような気持ちにさせたのかもしれない。

僕は都会の生活に向いていない。

休日はオシャレをして表参道なんかに行くより、スウェットのまま大通り沿いの駐車場がやけにデカいびっくりドンキーにでも行く方が身の丈に合っている。

東京及びその近郊で働きながら暮らすというのは僕にとって不可能だ。

だから田舎での就職は正解だったかもしれない。

向こうには高校までの友人がたくさんいる。

だがそれは東京で出来た友人との別れを意味する。

出張で東京には頻繁に行けるとは言え、物理的に離れてしまうとやはり寂しいし会う機会も少ないだろう。

何が言いたいかというと就職というシステムのせいで多かれ少なかれ友人を失ってしまうかもしれないというのがとてもやるせない。

自分で選んだ道だろうが何だろうが、嫌なものは嫌だし、この先100%満足の行く選択など出来ないと考えると気が沈む。

内定を貰った日の帰り道、全く話の合わなかったおじさん達を思い返しながらそんなことを強く思った。

ろくなもんじゃねぇ

ろくなもんじゃねぇ

  • 長渕 剛
  • J-Pop
  • ¥250



 

気持ち悪い内容でごめんなさい。

 

次回、「マッチョウィンプスのセブンルール」

ぜってー見ないでくれよな!

 

さようなら

センスがあると言われたくて

散髪をした。

「お客さん、頭がかなり凝ってますねぇ。」と店主が言った。

“コリ”というのは肩や首のように、筋肉のある部位にのみ存在する概念だと思っていた僕は「頭って凝るもんなんすか?」と馬鹿な問いかけをした。

「ストレスや考え事の多い人は凝りやすいんですよ。」と店主は応えた。

学生風情の俺がストレスや考え事なんて烏滸がましいと思い、小恥ずかしくなったので慌てて話題を逸らした。

帰宅してさっき店主に言われたことを反芻する。少し嬉しくなっている自分がいた。

それは、何も考えないで生きている馬鹿で世渡りの上手さだけが取り柄(と僕が決めつけている)の奴らが嫌いだからだろう。

嫌いな人間と離れたところにいる自分というものが、「頭の凝り」によって科学的に、客観的に証明されたような気がしたのだ。

言われてみると、考え事に関しては実際に多い方だと思う。

このブログは頭や感情がオーバーヒートしそうになった時のクールダウンが目的だし、暖かい季節にはほぼ毎晩散歩に出かけては公園のベンチに腰掛けて物思いに耽っている。以前このブログでも書いたが、賢者タイムと呼ばれる約30分の間には決まって人生の反省会を開催している。

故に頭が冴えて眠れない。

もう長いこと、就寝時には適当な動画を垂れ流すか、ラジオでも聞くなどして自分との対話を強制的に遮断しないとなかなか寝付けない。

そこで、逆に「考え事」について考えてみることにした。

まず何故考え事をするのか。

一言で言えばネクラだから。考え事をしている人は、仕事や人生がうまくいっていなかったり、悩みや不安が解決できずに苦しんでいたりすることが多いと思う。

つまりネガティブな感情によって考え事という事象が発生することがほとんどだ。心がネガティブに支配されることが多いから、考え事をすることも多くなる。決して考える事が好きな訳でも、考え事をしている自分が好きな訳でもない。むしろ逆である。

次に何を考えているのか。

勿論ネガティブな事だ。僕の場合は、過去の失敗や、◯◯が嫌いでそれは何故かという事について考えることが多い。

前者について。

なぜ過去のことをいつまでもウジウジと引きずっているのかとお考えの人もいるだろう。

そういった人たちには今すぐこのブラウザを閉じ、レぺゼン地球の動画でも鑑賞することを推奨する。おそらく僕の考えは理解されないし、余計な思想を植え付けて輝かしい日常に翳りを与えてしまったら責任を負えない。

さて、なぜ過去のことを清算できないかというと、プライドの高さや自信の無さが原因と思われる。

等身大の自分と理想の自分に大きな相違がある人、そして言動が本来の実力と一致しない人は「プライドが高い」と言われる。

プライドが高いから、理想の自分であれなかった事を忘れられない。

自信がないから、それを次に繋げることができない。(次はできるという保証がないから。もっと言えば同じ瞬間というものは人生でほとんど無いから、そもそも次なんてものが存在しない)

続いて後者、嫌いという感情について。

「嫌い」には物理的なそれと心理的・論理的なそれがある。

例えばパクチーの味が嫌い。これは物理的な嫌悪である。

そして映画、音楽、人間、行動などに向けられる嫌悪には心理的・論理的な原因がある。

物理的嫌悪に関してはどうしようもないし大した問題ではない。

問題はそれ以外に向けられる嫌悪である。

思えば中学くらいからそういった類の嫌いな物事が増え、高校、大学と進むにつれ加速して行った。

一言で言えば中二病

学校行事で熱くなって涙する奴、真面目で教師に気に入られる奴、推薦や内部進学で大学に進む奴、大学の喫煙所を占拠して誰々が何杯飲んだと豪語するサークル連中、奇抜な服や髪で浅はかなな個性をひけらかしておきながら無難に就職する奴。

僕は彼らを心の底から馬鹿にしてきた。

自分より熱くて真面目で世渡り上手な彼らを、自分より楽しく過ごしている彼らを、無理やり否定することで自分が劣等感に苛まれるのを避けてきた。

努力によって自らを変えるより、彼らを否定するほうが遙かにラクだった。

否定することで彼らより優位になった気になるし、周りとは違う観点を持ったセンスのある奴を気取ることも出来る。(勿論、否定の仕方や言い回しに多少のセンスが無いと本当に全人類から嫌われます。)

そうやって新しい事や価値観の合わない人など、色々と否定している内に世の中が敵だらけになってしまった。

結果としてそれが行動や交遊の範囲を狭めることになる。

周りに敵しかいないから、常に周囲の目線が気になって仕方ない。

表参道なんぞ歩くときには緊張とイライラで吐き気を催す。

場違いじゃないかと怯える。それは僕が他の人間をそういう目で見ているから、自分にも冷たい目線が向かっていると思い込む。

敵と同じことをしたくないから、一人で行動するか何もしないか。

敵と同じ行動を取ることは、敵の肯定、すなわち自分の否定へと繋がる。

そうして楽しいと思える瞬間がますます減っていくのだ。

ダラダラと統合失調症患者みたいな事を書いたが、何が言いたいかと言うと「嫌い」という感情は自分を守るためにうまれ、結局自分を生き辛くしているということ。

 

自分の弱さやプライドの高さを隠し持ったまま他者を否定する快楽の沼は、恐ろしく深い。

そこから抜け出して少しでも明るく楽しく生きるにはどうすればいいのだろうか。

おそらく、否定をやめることと、好きなことを見つけることの他にない。

例えば、タピオカドリンクの店に行列が出来ているとする。

その際

「カエルの卵飲んだぐらいでインスタか。めでてぇ奴らだな。脳みそカエルより小さいんか?」

という本音をぐっとこらえて、

「まぁ、若者にはあれが楽しいんだろうな」

と捉えることでパシャパシャとドリンク片手に写真を撮っているそこのJKは敵ではなくなる。

多分、僕は他人の行いを素直に羨ましがったり、肯定したりすることは出来ない。

それでも敵視をやめることで敵を減らし、生き辛さからの解脱を目指すことくらいは可能なはずだ。

そしてあまり金がかからず、ほどよい疲労感を与えてくれる趣味を探そうと思う。

これは大人の階段を上るとか、人として丸くなるといったことに近いのかもしれない。

今まで自分が否定してきた事をやったり、嫌いだった何かになるというのはカッコ悪いし恥ずかしいことだ。

「何をいまさらw」と、冷笑の対象になるだろう。

だが構わんのだ。

冷笑する人間の気持ちはよく分かっているつもりだ。

 

「お前も早くこっちに来いよ」

30歳の僕は今の僕にそう言ってくれるだろうか。

 

ナナメの夕暮れ

ナナメの夕暮れ

 

 ↑買え。貸してあげてもいいけど。

 

 

♪今日までそして明日から/吉田拓郎

 

 

今日までそして明日から

今日までそして明日から

  • provided courtesy of iTunes

 

 

さようなら、また次回。